これを読んでいる人の中で、日本が以前と比べて徐々に冷たくなっていると思う人はどれだけいるでしょうか?「冷たい」というのは抽象的な言い方ですが、この言葉の持つ感覚が現代の日本社会の特徴を良くとらえていると思います。

この漠とした冷たさは、個人の疎外感や、漠然とした不安感などの精神的のプレッシャーとして、現代人の心に大きな傷を残し始めています。ここでは、その根本的な原因がどこにあるのか、どうしたら社会が再び健全さを取り戻すことが出来るのか、僕なりの理解を示して見ようと思います。

「冷たさ」による現代社会の病理性は、真正な人間関係の欠如から起因するものです。真正な人間関係というのは、人と人とが利害関係を抜きに、人間同士が結びつく本来の引力によってつながる関係です。反対に不真正な人間関係と言うのは、人が人に利害関係においてのみ接するということです。この二つは簡単に分けられるものではありませんが、社会とはこの二つ良いバランスによって成り立つものです。

しかし今、特に都市部では、このバランスが崩れかかっていると言って良いのではないでしょうか。すなわち目的達成の手札としてだけ他人を見る人があまりにも多いような気がするのです。この原因は行き過ぎた商業主義とその競争性、それに伴う文化の喪失と言うことが出来るでしょう。

一昔前まで経済活動は地元の商店に支えられる形で営まれてきました。そこには店のおやじと毎日のお得意さんという、昔から変わらない形式があり、真正な人間関係をかいま見ることが出来ます。例えば、八百屋で「お金が100円足りないのか、しょうがねえまけてやるよ。」とか、「毎日ご苦労さんねえ」などの会話は、真正な人間関係の証でした。僕も「まあいいやのおじさん」と近所の子供達によばれていた、商品をお金のない子供に与えてしまう文房具屋などを思い出します。

しかし今の大衆消費社会はどうでしょう?マスメディアによるコマーシャル、あふれる広告、により現代人は商品のイメージを吹き込まれます。しかもそのイメージはその会社に有利になることだけに作られているので、個人の思考を混乱させ表層化、競争を誘います。機能性だけを重視する、ショッピングモールやスーパーマーケット、コンビニエンスストアなどには、一様の商品がならび、販売員は作り笑顔の練習をします。これら商業主義の発達が不真正な人間関係を作り出す原因と思えてなりません。

商業主義は、社会を合理的、機能的に変えようとします。会社はどうやって合理的に金を集めるかに苦心をし、目先の目的達成と安易な合理主義が最優先され、大きく広いものを見る力は排除される傾向にあります。それに従って社会も合理化され、不合理なものは排除されていきます。その多くは昔から育まれてきたしきたりや習慣すなわち文化と呼ぶべきものではないでしょうか。

しきたりや習慣は真正な人間関係を生み出す手助けをします。そして一件不合理に見えるような習慣も、長い目で見たときに大きな役割を社会全体に果たしているということが往々にしてあります。なぜなら、文化は古代からの何千、何万世代の人々が無意識のうちに作り出して洗練させてきた、人間社会が安定して存続する為のルールであるからです。

余談になりますが面白いことに、有史以前の狩猟採集の部族、または今日の辺境で生きながらえる集落は必ず構成員を20〜30名以内にとどめる為の絶対に守らなければならないしきたりがあり。なぜならそれ以上の構成員は全体の存在を脅かすことになりうるからです。そのような集落での生活が、全体の人類の歴史のほとんどを占めています。

その点から見ると現在の文明は、存続という事から正反対の方向に進んでいるように思えてなりません。このことは真正な人間関係の欠如による社会の病理性、ということからも語れますし、自然破壊、環境汚染からも語れることは当然のことです。

文明は常に進歩し続けようとします。少し抽象的な説明をすると、文明の進歩、発展には甚大な(物理的、精神的な)エネルギーが必要であり、そのエネルギーを確保することで、社会に巨大なエントロピー(摩擦、不協和音)を作り出します。小規模の社会はこのエントロピーは文化によって消されますが、現代文明は文化自体を壊しつつあるので社会のエントロピーは大きくなる一方です。

アメリカの大統領ジョージ・ブッシュは、今アメリカが一番に率先して、広い目で見た問題を考えなければならないときに、京都議定書の批准を放棄し、自国のエネルギー大量消費の上の経済発展を優先させ、うわべだけの理想を遂行し大衆にとっての英雄を気取っています。私たちはこれに憤怒を覚えなければなりません。

少し話が大げさになりましたが、いま、少なくとも日本の(日本に限らなくても)社会に、真正な人間関係を少しでも取り戻すにはどうすればよいのでしょう?社会をそして歴史の流れを、少しでも良いものにするにはどうしたら良いのでしょうか?

社会の競争性というものが、ここで大きく取り上げられるはずです。
商業主義の源は、社会を競争性において成り立たせるということです。例えば、企業は他社との競争で、経済力を強くしていきますし、個人も、経済的に豊かになるという競争に自ずと組み込まれます。その為、高校、大学入試なども過度の競争になりますし、大企業への就職なども競争になることは当然のことです。

そしてこの競争性を過度にしているものは、動物本来の本能と言うことが出来るでしょう。人間も霊長類の系統をくむ社会的な動物であるし、この競争性の本能というものはさけられないものでしょう。そしてこの本能を最大限に強調する社会のシステムが商業主義(資本主義)であるわけです。競争を原理としない社会主義が衰退するのはこの理由によるものだと思われます。

この点から言えば資本主義は、(生物学的に)理にかなった合理的な社会であるはずです。そしてこの競争性は時代を追うごとに激しくなっていきます。しかしこの競争性、物質主義は、人間社会をはたして「良い」ものにしていくのでしょうか。

私たちはそう思いません。私たちは競争による達成感、物質的満足感以外からこそ、社会全体が穏やかである力を享受できるものだと信じています。そして社会にとって最も大切なものとは真正な人間関係=暖かさであり、永遠なるもの、美しいものに素直に感動する心であるはずです。今の社会は、動物的競争性、それに準ずる物資欲が強すぎて、本当に大切な真正な人間関係=暖かさ、人間性=精神的な美しさのために捨て得る自我、を見失っている社会なのではないでしょうか。

余談になりますが、文化=(昔から育まれた人間の生活様式の規範)、そして宗教は競争を抑制する働きがありました。例えば「出るくぎは刺される」日本の伝統的な集団的態度にそれは表れていますし、「お見合い結婚」など配偶者選択の様式にもそれは表れていたわけです。一度合理性に飲まれてしまった文化は、取り戻すことは非常に難しいと思われます。これから壊されつつある文化についても、「古くせえや」と思う前にその意味をもう一度問うてみる事は重要なことです。

もう一度前の質問に戻ります。いま、社会に、真正な人間関係を少しでも取り戻すにはどうすればよいのでしょう?どうしたら社会が再び健全さを取り戻すことが出来るのでしょう?

今人間社会は一つのとても大きな転換期にさしかかっていると思います。一度止めどもなく転がりだした歯車を止めることは非常に難しいでしょう。そもそも人間など簡単に変わらないのですから。しかし、大きな視点からものを見、考え、僕にとって、人間にとって、社会にとって大切なものは何か、常にしっかりと捉えていたいと、そう思いませんか?

ここまで読んで下さった方ありがとうございました。

Tribal Recordings
Back
Agit itter it trend